UNRWA
2010年 03月 26日
私も実はそんな何詳しくはないのだが
ここには パレスチナからの移民が大勢入っている
UNRWA とは↓
国連難民救済事業機関パレスチナ難民のための東(UNRWAの)近辺総会の
決議によって設立された
1949年12月8日、ヨルダン、レバノンに450万人のパレスチナ難民の人々に
援助を提供する使命と シリア、ヨルダン川西岸地区とガザ地区は、難民問題
の解決策を保留中。
シリアでは、UNRWAの以上450,000パレスチナ難民には、教育、保健医療、
社会的支援とマイクロファイナンスの機会を提供する食料調達する。
これに JICAも協力しているのだ
そのひとつ 年1回のUNRWA CUPという サッカー大会が行われた
みんなとても細くって でもしっかり筋肉が着いていた
それかいずれは その2倍3倍もの大男になってしまうなんて・・・
日ごろの食生活は 気をつけなければなりませぬ
対戦相手は シリア国内
みんな お互い同じ区の血を引いていながら 異国に住んでいる 同じ同胞
でも 他の土地には行けず 交流がないため ここで同じ仲間がいることを認識する
ダマスカス ハマ ホムス アレッポ ラタキアに タルトゥース
主要都市の UNWRAの学校所属の青年たちが
みんなひとつになっていた
私もUNRWAに
実は興味がある
2001年 私はとあるボランティア団体に所属した
その際関わっていたのは 人権問題と戦争問題
アフガン問題をはじめ 9.11直後でそれにによる被害者の支援
その中にこのパレスチナ問題も 漏らすことなく入っていたのだが・・・
2002年 手を挙げた者だけ集い 死んでもかまいませんという一筆も書き
パレスチナへ支援物資を持って行った時のこと
必ずはいらなければならない 敵の国境 イスラエルの入国審査で捕まった
次の週に構えていた 国連の会議を恐れてか 怪しい日本人の団体を仕留めたのだ
私たちは 半日拘束され そしてパレスチナどことろか イスラエルの地も踏まずして
なぜか そこから直でアテネに強制送還された
そのあと少し 続けてみたものの そのショックは大きすぎた
それが原因でもあり 実はこの何年も ボランティアに関わることを避けてきたのだ
しかし ここに来た
それも たまたま
JICAの最終面接で 南米「パラグアイ」の言葉を何度も聞き
パラグアイは第一希望で その時までの状況で 私の職種は私しかいなかったため
少しだけスペイン語も話せるし 言葉の上でも南米で決まりだと思っていたのだが
運命とは 分からないものだと シリアに決まって本当に思った
だから ここでこういう形でUNRWAという団体がいることを
何かの形であの時出来なかった事を つなげたいと思っている
でも まだどうしていいかわからず
今はようやく始まる 明後日からのボランティアに
不安でいっぱいな日々を過ごしているのだが・・・
山のふもとの壁
みんなが
気付かない
ところに
野花のように
咲いていた
壁の花
世界に壁が
あることを
知らないような
淡い色で
この絵は
綺麗に生きてる
世界から 人種の壁など 無くなればいいのに と
何ができるか 何をするのか じっくりと考えなければならないと思った1日だった
by angelyummy1
| 2010-03-26 09:22
| 活動